世界の果てを車はゆく

カーラジオの男が言う。
 「今年の冬の流行色はあおいろです」
 その話題は僕の心を奇妙な方向にスライドさせる。座りの悪いどこかへと連れてゆく。
ガラス窓の向こうは摂氏34度の世界で、冬の到来はアコーディオン状に折り重った熱気のはるか彼方にある。夏。
完壁な夏がそこにはある。象徴としての夏でも、形而上の夏でも、詩的比喩としての夏でもない。リアルでシンプルな夏。アクセルを踏み込むと時速90キロで後方に流れ去っていく夏。
それでもカーラジオの男は予言する。「今年の冬の流行色はあおいろです」。
やれやれ。
僕は思う。
僕たちを取り囲む多くのものごとがそうであるように(あるいは僕たちそのものがそうであるように)、来たるべき冬の流行色もまた定められているのだ。
「今年の冬の流行色はあおいろです」。
それは正確には予言ではなく、予定なのだ。
ハンドルを指で叩きながら──とん・とん・とん──個人的営為と絶対的運命の相克について考える。そのシビアなしのぎあいのなかで、僕がふさわしい自我を得ることができる可能性について考える。もちろん少しのあいだだ。
煙草一木分の時間。それ以上考えたところで辿り着く場所は決まっている。なぜならすべては予定されているのだ。
冬の流行色みたいに定められている。
オーケイ。
諸君、ロックしようじゃないか。
カーラジオのチャンネルをひねる。
アナウンサーの声が雑音に溶け、かわりにギターの音色が夜の霧みたいにスピーカーからこぼれ出す。大昔のプロテスタントソング。ロックと呼ぶにはあまりにフォークじみたしろもの。
まあいいさ、と僕は思う。
まあいいさ。自我についての沈思黙考に比べれば、ずいぶんと健康的でドライブ的だ。イエス。すべては比較の問題だ。どちらがよりマシか。より長い期間我慢できるか。吐瀉物と排泄物のどちらがより詩的かというような意味合いにおいて、それは無意味で限定された選択なのだ。無意味で/限定された/選択。とん/とん/とん。
  ライリー・Rをころしたのはだれだ?
  なぜ、どんなわけがある?
  十五人の奇術師が おれにいう
  「いいかい ヤンク・ディラン
  人生は 坂道で起こる事故みたいなもの
  制御できない悲劇の連続のなか
  われわれがなせることは あまりに少ない
  だとしたら なあ ヤング・ディラン
  ライリー・Rは ロストハイウエイにいくしかなかったのさ」
 リアルな僕の世界についてのインフォメーション。
F県I市。東京から車で三時間のポイント。 僕たち(つまりは僕と、僕の車)は時速90キロでハイウエイを移動してぃる。まっすぐなハイウエイ。カール・ルイスが全カでラインカーを走らせたみたいにまっすぐ。見渡す限リ他の車の姿はない。僕たち専用の失われたハイウエイだ。
ハイウエイの両協にはホ口コースト的な荒野が広がっている。すべてが白っぽい砂利に覆われてぃる。田畑どころか、木も草もない。信号機も、民家も、コンビ二も、ばかげた交通標語の看板もない。──いいかいヤング・ディラン。交通標語の看板さえないのだぜ? 『ギュッと締め/心とからだの/シートべルト』。極めて完壁に近いかたちの無意味。そしてここには、そんな無意味さえありはしない。100パーセントの荒野。
30分はど前、放棄された原子力発電施設の脇を走り抜けた。
閉鎖されて久しいのであろう。かつてそれが抱えていたはずのべらぼうなエネルギーは、洗いざらしのジーンズみたいに漂白されてしまっていた。それは僕に巨大な動物の死骸を思わせた。しんどそうなため息をひとつついて、次の瞬間あっけなく死んでしまった生き物。そしてそれは死骸的であると同時に墓標的でもあった。
陰鬱な光景だった。世界に動きはなく、のぺっりとした均一性の上に夏だけが満ちていた。時間さえも死んでしまったように思えた。なにもかもが身を固めて、息をひそめていた。空は灰色で暗く、黒い雲がものすごい勢いで此方から彼方へと流れていった。

  すてきな すてきな ロストハイウエイ
  へイ いかれたガチョウにしがみつけ
  すてきな すてきな ロストハイウエイ
  へイ いかしたハンドルを握るんだ

 ──世界の果て。
僕はそんな言葉を思う。舌に乗せ、声に変えてみる。
「世界の果て」
 悪くない。
 それは時速90キロで夏をゆく僕の車のなかに、素敵に響く。
リリカルだ
詩的にリリカルで、駄菓子みたいにポップだ。
LYRICALでPOPなWORLD'S END──。
「世界の果て」
 けれども二度目に口に出してしまうと、それはもうちっともリリカルでもポップでもなかった。魔法は失われてしまっていた。ただ白々しく、虚しいだけだった。
 なぜだろう?
もらろん──僕にはわかっている──世界の果てなど本当はどこにもないからだ。
辿り着いた瞬間、世界の果てはリアルなフロンティアに化ける。僕たちはそこで生きていくしかない。その時点ですでにそこは『ここではないどこか』──世界の果てではなくなってしまっているのだ。僕たちが辿り着くたびに、世界の果てからは世界の果て性とも呼ぶべき神秘が失われる。一歩前に出ればその一歩先に。伸ばした手のすぐ先にありながらも決してつかむことができない。
あるいは、僕たち自身が定点のない世界の果てなのかもしれない。
僕たちが前に進む。世界の果てもまた前に進む。亀に追いつけないアキレスみたいに、僕たらは世界の果てには辿り着けない。それはすなわら、僕たらは僕たち自身をつかむことはできないし、僕たち自身から逃げることもできないということなのだろう。
カーリングみたいにシビアで、トライアスロンみたいにハード。
つまりは現実的ということだ。
やれやれ。



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